自由・経済・科学・合理主義

自由・経済・科学・合理主義についてのブログ

利己主義、政府、自由及び寛容の原理

++要点 自由と利益の原理
・人々は自らの利益を最大化するように行動する

・利益の内容は人によって千差万別であるために人々の選択の自由を拡大することが人々の利益の拡大に繋がる

・選択の自由度=適切な法規制 × 科学力 × 経済力 × 寿命 × 余暇時間 × 個人の技術 × 平和 × 人々の寛容さ

・これらの要素を成長させれば人々は自らの利益を拡大することが出来る。

++個人の行動原理とその相互作用から説明する政府の成り立ち

人間をより多くの自己の欲求を満たせるように行動する存在と考える。
欲求を満たす効果を持つものを”利益”と呼ぶ。
人間は利益を最大化するように行動する。
ただし、利益の最大化への行動の結果は必ずしも利益を最大化するわけではない。
また各人にとっての欲求は様々であるために、何が利益であるかは各人の主観によって決定される。
そして、その利益がどのような実態であれ、何らかの資源(時間、物質、労力、精神力など使用可能なもの全てを意味する)を消費することなしには獲得することは出来ない。

 普遍的・絶対的な正しさや正義、善、悪、正当さ、不当さ、義務、道徳というものは存在しない。ある事物に対してそれらを感じ・思えたとしてもそれは各人の感覚でしかなく、その感覚はその感覚自体が正しいことを立証するものではない。
例えば「私が間違ってると思うから間違ってるのだ」と言っても、それはその不当さを何も説明しておらず、ただ自らの感覚を他者に押し付ける・訴えているだけである。その感覚は共有されることはあってもそれは同じ感覚を抱く者が複数いることを意味するだけで普遍性・絶対性があることを意味しない。もし、普遍的・絶対的な正しさなどがあるとすれば、それはいつ・どこで・何が・どのように定めたのか。

 人間は原初の状態において法律、道徳、慣習、契約など”ルール”に類するいかなる束縛も受けていない。人々は全てにおいて自由である。そのために、互いに自己の利益を最大化しようとするため、同一のものを欲したとき、もしくは他者自身を含む他者が所持しているものを欲したとき、闘争状態が発生する。
 闘争状態は短期的には利益を獲得することができても長期的には利益を減らす。なぜなら闘争状態は常に他者からの攻撃に備えざるを得なくなるからである。人間が持つ資源は限られており、他者への攻撃に備えるのに使用された資源の分、自己の利益を最大化するのに使用可能であった資源を消失するために、長期的には全ての人間の利益を減らすのである。
 加えて、仮に一つの闘争に勝利にしたとしても、自然とそれを奪い返される備えをしなくてはならなくなる。
また、ある闘争の勝利はそれに付随する闘争心や力を証明する。それは他者に警戒心・敵対心を抱かせ、それらを抱くもの同士を各々自らの利益の保護のために団結させるので、勝利以前の闘争状態を超えたさらなる危険に勝者をさらす。
 闘争状態は全ての人間の利益を減らすために、各自が自己の利益を最大化するには闘争状態を終わせる必要がある。
闘争状態を終わらせる方法の一つが契約である。契約は自己の利益を傷つけにくい形での新たな闘争方法(以後、競争と呼ぶ)を提供したり、相互に各々の所有権を認め合ったり、共有の財産として扱い共同で保護しあうことを約束することで、契約者間の利益を保護する。
契約は相互に利益を保護しあうからこそ契約者自身によって守られる。
 仮に契約下で一方の利益が保護されなければ、契約によって利益を保護されている者が”自己の利益のために”契約を守るのと同様に、自己の利益を保護されないものは”自己の利益のために”契約を放棄するのである。

 しかし、契約によって契約者同士の利益が相互に保護されることは必ずしも契約が守られることを意味しない。各自が契約を守る目的は利益を保護するためであるが、一度契約を交わしたのちに破ることがより利益を増大させると考えた場合、短期的な利益の増大を追い求めた場合、利益を最大化せんとする性質上、契約は破られるのである
 そこで、各人は何らかの方法で契約を反故に出来ないようにしようとする。その方法の一つが各契約者よりも強い力を持ち契約の履行を監督する存在、監督者を設置することであり、監督者は契約が一方的に破られた場合に、契約を破った者から破って得られる以上の利益を奪う、契約を破ることでそもそも利益を得られないようにするなどして、契約者達に契約を守らせる。その監督者は、実際には”政府”などの形で現れている。

++政府の成り立ちから考える政府の役割
 先の政府の成り立ちを真とした場合、政府の役割は各契約者に”契約を履行することが自己の利益を最大化することになる”と考えさえ、実際にそうなるようにする事で契約を履行させる事、ということになる。それは実際には刑罰などによって達成されるが、刑罰を受けた場合であっても、それを受けることが長期的には利益になる場合において政府は罰せられた者にも承認されうる。政府は各契約者の長期的な利益を保護する限りにおいて各契約者に存在を認められるのである。

 政府が各契約者の長期的利益の最大化という役割を放棄したところで、すぐさまに解体されるわけではない。政府は契約者から与えられたその力ゆえに政府の存続がいまだに利益であり続ける者たちによって維持されるのである。それは革命によって新たな政府が樹立され終焉を終える場合もあるが、軍・警察等の武力を味方につける独裁者の作法によって維持され続ける場合もある。とはいえ、そのような政府は承認されておらず承認されなければされないほど崩壊する危険は高まることに違いはない。
 政府の崩壊はそれは闘争状態への回帰を意味するので、政府が全ての契約者の利益を保護することにより半永久的に承認され存続することが、全ての契約者の利益を最大化するのである。政府が全ての契約者の利益を保護するように仕向ける仕組みは、実際には憲法や民主主義、三権分立という形で現れている。

++政府の役割から考える政府のあり方について
 代議制民主主義下において、政府が全ての利益を保護するようにするには、議員に選出されるには出来るだけ多くの支持者が必要な制度にするべきである。もし小選挙区制のように必要なのが一部の地域の支持者のみであるなら、その議員は自然とその一部の地域の人々のためにのみ働くからである。そのような一部の地域の人々の支持を受けた政治家が全ての地域から集まることで結果的に全ての地域のことが考えられるかもしれないが、それでは結局、全体の利益を考える者が存在せず、各地域に資源の配分が行われる程度で相互に協力して全体の利益を増やすのは難しいのではないだろうか。 

 個人的な観点から見れば、多数の様々な政府があれば、自身にとって最も利益となる政府を選ぶことが可能になり、これは全ての人々の利益を増大しやすくする。今いる政府が何か重大な間違いを犯しているとしても、移動が容易な別の政府があればそこに移住するだけで多大な政治的な努力なしに多くを解決することが出来る。

 また人々というのは必ず共存出来るわけではない。宗教にしろ、民族にしろ、思想にしろ、過去の遺恨にしろ、感情にしろ、調和・両立が不可能で必ず対立が発生する場合もあり、そのような場合には一つの政府の下で共存を目指して対立を続けるよりも、別の政府の下で棲み分けることによって共存した方が双方は居心地よく暮らせて利益となるだろう。

 政府の多様性は効果が未知の政策のリスクヘッジも可能にする。無数の企業が生まれては消え、その中から成功する企業が出てくるように、ある政策が現時点で正しいかどうかわからない場合は実行して結果を見る他ないわけであるが、多数の政府があれば、上手くいく政策を発見しやすくすると同時に政策の失敗による全滅を回避することが可能になる。

 政府というのは必要最小限度の大きさに収まるべきである。政府が巨大になればなるほど自国民が増えることになるが、その増えた分だけ処理しなければならない情報量は多くなり、政府と国民の距離が遠のき、適切な利益の保護が難しくなる。また巨大な政府が崩壊したときその被害は政府が巨大であればあるほど大きくなるが、政府が小さければその分被害は小さくて済むし、その国民は別の政府の下へと入ることによって被害を減らすことも可能になる。

 また、巨大な政府は承認されなくなったとしてもその巨大さと再び政府を構築することのコストの高さ故に打倒が難しく、いつまでも自国民の利益を害し続ける存在となる。政府が打倒されにくくなるほど、全体ではなく一部の人々の利益のみを保護し続ける可能性が高まる。なぜなら政府が承認されなくとも存続し続けるとすれば、政府を支配するのが利益を最大化すると考える要因が高まるからである。もし、承認されなくなればすぐさま崩壊するような政府であるなら、各人は自らの利益のため政府がすべての契約者の利益を守り続けることを望みやすくなる。
 
 この政府の打倒は政府の交換によって非暴力的に達成出来る。国民の側が別の国家に移住すればその移住者は、複数の国家間を国家に国民の利益を保護するインセンティブを与えることも出来るし、政府の中身を交換する、つまり選挙で政治家だけでなく官僚なども含めて交換することでも達成出来るし、この二つの手段は両立可能である。なお、政治家だけの交換では不十分である。何故なら結局、政治家だけでの法案の作成や政権運営は難しく官僚が関与することになるが、政策が失敗しても官僚は何の責任も追わないとなれば、官僚は自身に都合の良い法案だけを作ることを考えるだろう。政治家は選挙に勝つことこそが利益の一つであるために支持者の利益と政治家の利益がある程度連結するため政治家は国民の利益を考えるのであるから、政治家同様に国民の利益と官僚の利益を連結させる必要がある。これは結局のところ選挙を通じて一定以上の地位にいる官僚を交換する制度にすれば、官僚に国民の利益を考える動機を発生させることが出来る。

 また基本的に所持している情報量においては官僚が政治家に比べて圧倒的に有利であり、官僚は政治家を操作しやすい状態になる。そのような状況を解決するには官僚同士を競わせる・牽制させ合うのが良いのではないか。

++政府は利益の直接給付ではなく間接給付をするべきである
 究極的な政府の役割は自国民、承認を受けている契約者たちの長期的な利益を最大化することであり、政府はそれ以外のことをするべきではない。国民の利益を害するようなことは言うまでもないが、なぜなら何らかの行為をするには資源が必要であり、資源が限られている以上、政府が持つ資源は自国民の利益のために使われることのみ国民から認められるからである。

 政府の究極的な役割は自国民の利益の最大化であるが、利益を最大化可能なように条件を整えるのが実際の仕事となる。なぜなら利益の実態が千差万別である以上、政府が自国民の多種多様な利益を把握して供給することなど不可能だからである。

 加えて、政府が直接利益を供給した場合、利益とならない事物を供給してもその責任を取ることはなく、ただ国民が被害を受けるだけである。政府による利益の直接供給とは、ソースカツ丼を食べたくて店に入ったのに、店主が”あなたが食べたい物はわかってます”といってハンバーガーを出してきた上にその料金まで請求するようなものである。

 政府が教育であれ福祉であれ、なんらかの支援をするのであれば現金を直接給付するかクーポンを渡すべきである。これなら各自で最適な選択が可能になり、各自の多種多様な利益を獲得しやすくなる。また各自の選択の結果として需要のない事業は淘汰され需要のあるサービスが生き残りサービスが洗練化される。

++教育システムと学習インセンティブ
 政府が国民に何を学ばせるか、ある程度は決定すべきであるが、それは必要最小限度に留めるべきでないだろうか。その分野の知識がなければ日常生活に支障をきたしたり、他分野を学習することができない、何が自分にとっての利益であるか判断するのに必要な知識、不変的で将来書き換わることのない知識。
 例えば初歩的な数学や科学、国語、英語、選挙などの社会制度、論理的な思考法、性知識、基本的な法律など。古典や漢文、歴史、音楽など必要な人にとってのみ必要な科目を強制的にやらせるのが果して各人の利益に本当になっているだろうか。確かにそれらの分野の知識が役立つときもあるが、別に学ぶべき事がある人にとっては学習の妨げをしている事になるし、興味のない人にはストレスを溜めるし、強制的に消費させて学ばせるのが本当に当人にとって良いことであろうか。結局、それは当人のストレスになってるだけではないだろうか。一般的な話でいえば、当人がなんのために学ぶのかといえば、それが無自覚的であれ、お金を稼げるようになるためであって、当人からすればそのための知識さえあればいいので、それを学んだ残りの時間は各人の自由にさせるべきでなかろうか。
 そもそもその分野の存在を知らなければ学ぼうと思うことはできないので、分野の紹介程度はするべきであると思うが、必ずしも必要でない分野は現在のように何年もかけて強制的に学ばせるのではなく、各人の選択に任せるべきではなかろうか。

 各人は自己の利益を最大化するように行動する、としても利益を得られるのが十数年後だとすればそのために行動出来る人間は少ないであろうし子供には余計に難しいであろう。政府は教育を受けるインセンティブを子供に与えるべきである。勉強というのは一般的に苦痛、軽くて退屈なものであって少なくとも大多数の子供はゲームのように積極的にやろうとはしない。親など身近な人間が勉強することを褒めることがインセンティブとなる場合があるが、これは偶々良い環境に恵まれた子供しか得られないために不平等であるだけでなく、全ての人間の利益となる科学技術・文明の発展と維持は根本ではこのような勉強に支えられているので誰にとっても繋がってる問題であり、子供の勉強へのインセンティブというのは軽視してよいことではない。
 現在の学校は生徒が学校に行き、そこに所属している教師から教わる、という形態を取っているがこれは改めるべきではないだろうか。距離の問題で生徒は学校をほんとど選べないし、教えるのが下手な教師に当たればそれはその生徒をそのまま不幸にしかねない。現在はネットによって動画の視聴が可能なのだから、講義は教えるのが上手な教師が解説している動画を使い、生徒と直接接する生身の教師は別の役割を担うべきでないだろうか。これなら教師の負担を軽量化することも出来る。

 またこの形態をより活用する方式として、勉強が得意な人間と不得意な人間、もしくは勉強に意欲的な人間とそうでない人間がいあるのであるから、勉強の速度も各人に合わせたものにすべきではないだろうか。学習すべき分野をいくつかに分割して、それのテストをいつでも受けられるようにして、全てのテストに合格したら昇級・卒業するなどのシステムのほうが各人にあった速度で学習でき、勉強のモチベーションも維持しやすくなり、早く卒業したい人は早く卒業できていいのではないだろうか。

 教師の役割は褒めるなり意義を説明するなりして勉強の動機づけを与えるところにあるべきでなかろうか。そもそも無理矢理やらせるよりは自主的に勉強するほうが勉強の効率も高まるし子供に無用なストレスを与えることはない。また、教師や親が無理矢理やらせるようでは親や教師がいる場合にしか勉強しない人間になりやすくなるだろうし、卒業後のことも考えると自主的に勉強を行うような人間が多い方がその人自身にとっても他の人々にとっても利益となりやすいだろう。

 直接的にテストの合格など昇給と共に子供に現金を給付していくのが公平かつほとんどの子供にとっての強烈なインセンティブになるのではないか。そのお金は学費にあててもいいし家庭の経済事情に余裕があるならすぐに使えばいい。家庭や親に問題があるのなら独立の費用にあてるなど、インセンティブを与えるだけでなく、それぞれの家庭に合わせた支援が可能になる。 

 子供の仕事は勉強、というふうに言う人もいるが、だとしたら彼らはその仕事から一切の報酬をもらってないのだからやる気が出ないのは当然でないだろうか。加えて、学校での勉強がすぐに役に立つ場合は少ないので、子供からすれば永遠と意義も分からずに分けの分からぬものを無理矢理にやらされているようなものである。人によるであろうが、楽しくもなく意味のないことをやらされることは大体の人間に苦痛でなかろうか。現金を給付すれば、勉強内容の意義は得ずとも勉強行為自体の意義は得られるのでこの無意味問題を解決することが出来る。
 また子供への現金給付は大人による子供の支配も緩和するだろう。現状、子供は大人の経済力に依存している以上、子供は最終的にはその依存先の大人に従わざるをえない状況にあり、これが大人による子供の支配をより容易にするが、子供がある程度の経済力を獲得すれば多少なりとも緩和することが出来るであろう。

++年齢制限と判断力
 必修の分野を絞る代わりにその分野のテストに受かってなければ卒業させるべきではないのではなかろうか。”子供はまともな判断力がない”という人がいるが、確かに一定以上の年齢にならないと論理的な思考が出来ないのはそうらしいのであるが、では一定以上の年齢に達した大人がまとな判断力を持ってるかといえば、そうでないことは言うまでもないことであり、いわゆるまともな判断力というのは論理的思考の訓練やその分野の正しい知識を習得しているかどうかに依拠しているので、その手の経験を習得していなければ大人であろうが子供であろうが正常な判断など出来ないのである。
 ならばそのような不十分な訓練しか修了していない人間を社会に出すべきであろうか?また、十分な訓練を修了している者を不十分な者たちと同じ段階に留めたり、権利を制限すべきであろうか?
 現在は年齢による制限がなされているが基本的に全ての国民が学校で教育を受けるのであるから、卒業に伴い身分証も兼ねた判断能力の証明書を発行し、それを基準に契約の同意などを行うべきでなかろうか。不十分な判断な能力しかないにも関わらず年齢によって契約能力の有無をみなすというのはあまりに粗末な基準でなかろうか。
 選挙の投票権にしても現状では一定の年齢に達していれば不十分な思考力しかない人間に与もえられているが、これも思考力の証明書を基準にするべきでなかろうか。不十分な思考力を悪用する扇動に乗せられた結果、国が滅ぶこともある。事実、大日本帝国は滅びている。対米開戦の理由はドイツの三国同盟による謀略、ソ連のスパイ工作、当時の高い失業率からくる社会不安、陸軍と海軍の予算をめぐる攻防、ABCD包囲網、ミラーイメージングによる米国の意図見積の失敗、など多数の要因が挙げられているが、その中に世論の後押しもあったのである。政治家は基本的に国民の支持を得て行動する以上、世論が対米開戦を煽る人々を軽蔑し米国との国力差を理解していれば防げた可能性もあったのではなかろうか。戦争までとはいかずとも他国が成長している中、20年以上名目経済成長せずに没落の一途を辿るという偉業を達成している国がある。ピケティによればどれほど社会が成熟しようが1.5%は成長出来るらしいのであるが・・・。
 もしくは選挙の年齢制限そのものを無くすべきではないだろうか。未成年の人間にとって現在の政策が成人後の利益に関連するに違いないにも関わらず、その政策に関与出来ないというのはおかしくなかろうか。政治家は支持者が要請する政策を推し進めるのであるから、未成年者が支持者とならないのであれば、未成年者の利益となる政策を行うインセンティブは薄く、これは非常に不公平な状況にあると言える。
 人々の判断力を優劣を考慮しないのであれば年齢制限など行わず全ての人間に政治参加の権利を与えるべきであるし、判断力の優劣を考慮するなら年齢ではなく真の判断力で制限を行うべきである。
 選挙の仕組みそのものを理解出来ない者については親など代理人が投票すればよい。親心とその判断力を信じるのであれば子供から信託を受けた親たちは子供のための政策をしてくれる政治家に投票するだろう。
 とはいえ、保育士になるのに免許が必要であるにも関わらず親になるのに免許が不要、というのは奇妙でなかろうか。性交渉自体は究極的には個人の問題であり各自の責任で行ってもよいだろうが、親になるとなれば子供という他人を扱うことになるのであるから話は別であり、子育てに必要な十分な精神力、体力、経済力、知識が伴うべきでなかろうか。出産そのものを禁止する必要はないが、免許が取れるまでは政府の機関で育成するなどすべきでなかろうか。その育成機関を常時子供に開放、つまり子供の意思だけでいつでも出入り出来るようにしておけば、免許を持っていても問題のある親から避難所として機能させられるし、子供が親を告発することも容易になる。子供が親からいつでも逃げられるようにすることで親はより子供を大事にしようとするインセンティブを高める事ができるだろう。

 

++政府の役割2 選択の自由とその拡大
 何が利益であるかは人によって千差万別で政府がそれらを把握することは出来ないために、政府は経済的支援や取引のルールの制定など利益を得る手段の供給やその円滑化、詐欺や暴力などからの利益の保護は可能であるが、利益の直接供給は需要とのミスマッチを起こす。よって各人の利益の獲得は各人の選択に任せるべきである。
 政府の役割は国民が得られる利益を最大化出来るように条件を整えることであるが、これは選択の自由度を保証・拡大することによって達成される。利益は各人の選択の結果によって獲得されるので政府はその選択肢を増やすことで各人の利益を増加させやすくすることが出来る。政府は国民の選択肢の総量を増やすことを目標に政策を行うべきである。
 選択の自由度とは、実行可能な行為の量である。これを増加させるには、法的な制限の緩和だけでなく技術の発展、新たなサービスや物の開発、労働時間の減少などに伴う非拘束的な時間の増加、景気の上昇や再分配政策など収入による購入可能物の増加、医療技術の発達による生涯時間の増加、ピアノ演奏やプログラミングなど知識や技術の習得による自由度の増加、平和や治安の安定など多数の手段がある。
 法的な制限があればそれを選択することは基本的に出来ない。互いの自由と利益を保護しあう法律もあればただそれらを奪うだけの法律もあり慎重な制定が必要である。
 科学が発展しなければ利益となるものが市場に並ばないし、鉄道の発明は人々をより自由に遠くへ行けるようにした。お金だけあってもそれを使う余暇や機会がなければないも同然である。
 景気の上昇は人々の懐を潤すことで多くのものを購入出来るようにするし、設備投資や研究投資の増加など技術の発展に繋がり、自己増殖的に自由を拡大させる。再分配政策は偏った富を分配することで治安を安定させると共に不十分な富しか持ってないものに富が行き渡ることで購買力の上昇を通じて全体で見た自由度を拡大させるだけでなく、需要の拡大によって経済の拡大させる。逆に富が極端に偏れば需要の縮小を通じて経済を縮小させ自由を縮小させる。
 医療技術が発達して寿命が伸びたり健康に活動出来る時間が増えるだけ利益を得る機会が増える。
 個々人の技術の習得は趣味であれ仕事であれより多くのことを出来るようにし個人の選択の幅を広げる事ができる。
 平和や治安が安定してなければ自由を享受することは出来ないのは言うまでもないことであるが、さらにこれは闘争状態なのであるから、不安定化は全体の利益も減少させるであろう。人々は自身の長期的な利益のために社会の構成員の一人になっている、すなわち契約に縛られているにも関わらずそれが達成されないとなれば社会の構成員となる理由はないのである。だとすればその者たちはどのような行動を取るであろうか。社会保障が必要な理由もここにある。

 選択の自由は適切な法規制、科学、経済、富のバランス、寿命、個人の技術、平和、治安など複数の要素によって支えられている。政府はこれらの要因を推進・拡大・発展させることにも資源を割き、人々はそのような政策を行う政治家に投票しよう。それが人々の利益を最大化するのである。

++人々と自由と寛容について
 政府が行って承認される自由の制限は基本的にそれが全体・長期的に見れば自由をより拡大させる場合だけであるのと同様に、一般の人々が一般の人々の自由を制限する場合もこの原則に従うべきである。自らのために他者、全体の利益・自由を損なわせる者はエゴイストであり、契約に守られていながら闘争状態の利点を享受しようする者である。それは社会にとっての害であり、契約を教え込むか、闘争状態の地域にでも追放されるべきである。
 政府であれ一般の人々であれ、誰かの利益・自由を制限してよいのはそれが明確に他者の利益・自由を害し、全体の利益・自由を減少させる場合だけである。 
 また人々は他者に寛容であるべきである。なぜなら全ての人々が他者の寛容によって自由を享受出来ているからである。エゴイストたちの不寛容には不寛容を以て応じなければならない。もし誰もがエゴイストであれば我々は何一つとして出来なくなるだろう。犬が嫌いな人間は社会から犬を一掃することを要求し犬を飼うことは難しくなるだろう、人よりも虫を愛する人間は害虫駆除の刑罰化を要求し蚊を殺すことは出来なくなるだろう、ベジタリアンは肉食の禁止を要求し食肉工場を焼き討ちし肉を食べようとする人々を弾圧する。神の下僕は他の神に仕える者や無神論者を執拗に糾弾し、服装や口調にうるさい人間は見知らぬ他人に自己の基準を押し付けようとし、恋する男女は相手を自分の”物”にしようとするだろう。フェミニストは男女の調和ではなく男性権利の縮小と女性の特権階級化を求め、男女平等を求める女性を糾弾し、全ての女性を自分の物であるかのように扱うだろう。誰しもが自分が興味のない物は無価値である・害悪であると喚き散らし、自分の興味があるものことこの世で唯一価値のあるものだとしそれのみの生産を命じようとするだろう。完璧主義者は自身の不完全性を棚に上げて他者の不完全性をしつこく咎めであろう。不愉快なことがあればそれの排除を試みるか他者に当たり散らすであろう。気に入らないことを言う人間がいれば発言機会を奪おうとし、何らかの地位にいるか所属組織にいるのならば、そこからの追放を要求するであろう。自分こそが正義であると信じて疑わない人間はその独善を全ての人々に押し付けようとするであろう。大人達は子供のためと言って自分の理想を子供に強制し満足感に浸るであろう。子供などの弱者を利用する人々は自らのエゴを子供のため・弱者のためと言って押し通そうとするだろう。反出生主義者たちは妊婦を激しく罵り、堕胎を嫌う人々は堕胎を禁止しようとするだろう。恋人が欲しくとも手に入らない者たちは「私の心を傷つけた、社会の風紀を乱す」と言いがかりをつけ、恋人同士が公衆を歩くことの刑罰化を求めるだろう。時代に取り残された人々は自分が使えない機器や知らない道具を使う人々、新たな文化に親しむ人々に言い掛かりをつけて、それをやめろと命令するだろう。自分の経験と感性が不愉快さや不当さを感じればそれこそ真実であると疑わない人間は、自分のイメージだけを根拠に他者を抑圧するだろう。癇癪に触る話法を使う人間を毒殺刑に諸相とするだろう。
 我々自身の穏やかな生活が他者の寛容と忍耐を必要条件としている以上、我々自身もまた我々自身の利益のためにも他者に寛容と忍耐をもって応じなければならない。想像や妄想、自身の感性のみに基いて独善的に他者を糾弾・抑圧すべきではなく、人々を欺き扇動を企てる輩がいることを記憶にとどめ、理性と知識を以て精査しそれに抗わなければならない。それが我々自身の自由と利益を拡大するのである。

 他者の自由を制限したり何かを命令しようとするものはそれがその者にとって利益になることを説明し説得し合意をえなければならない。何者も自身の支配者は自身だけであり誰のものでもないからである。合意を得ずにそのようなことすれば同程度の強度で制裁を受けてしかるべきである。それはどのような形態を取っていようとも、他者の自由と利益を害しており窃盗や暴行と同じことをしているからである